@article{oai:rku.repo.nii.ac.jp:00003503, author = {田簑, 健太郎 and タミノ, ケンタロウ}, journal = {流通経済大学スポーツ健康科学部紀要}, month = {Mar}, note = {P(論文), 異文化理解や他者理解は文化人類学や社会人類学において重要なテーマであるが,当然のことながら,スポーツ人類学においても同様に重要なテーマである。異文化に存在するスポーツを調査・研究する時に,「どのような立場から,どのように研究するのか」ということは,重要な課題であり,言語を異にする場合,より顕著に現れる。さらに,スポーツを対象にする以上,スポーツは身体文化であり,眼前に繰り広げられるスポーツ(身体文化)や,インフォーマントの「語り」を調査者が「どのように受けとめるか」,あるいは「受けとめることができるか」ということは,研究者にとっての生命線といえる。これまでのスポーツ人類学研究において,スポーツの「技術」については取り扱われたことがあったが,実際にスポーツをしている実施者と研究者である調査者のお互いがどのように,スポーツを理解しているかということについては検討されておらず,本当に実施者が感じていることと調査者が理解したことが一致しているかどうかは確認されていない。つまり,これまでは研究者である調査者はすでに分析する立場として,「スポーツを理解できる者」という暗黙の了解があったといえよう。スポーツという「現象」を機械論的に捉えるのではなく,ゲシュタルト(Gestalt)として運動を捉え,それによって,全体論的に理解することができる。運動ゲシュタルトは,「自己運動と言い換えてもよいが,私の運動感覚能力によってしかとらえられない意味構造をもっている」と述べられるように,個人的感覚の範囲でしかとらえることができない。しかしながら,この運動感覚能力を持つことが調査者にとって重要であり,スポーツ経験者の特長といえる。それによって,スポーツを再構成するとともに,その動きを理解することができるのである。と同時に,現象としてのスポーツを理解する上において,運動ゲシュタルトをまず理解するとともに,自らの身体,感覚について理解しておかなければならないと指摘できる。本研究では,「スポーツ」という現象を身体感覚のレベルでいかに調査者が理解(解釈)するのか,スポーツ運動学の知見を踏まえつつ,検討することを目的としたが,検討の結果に以下のようにまとめられよう。(1)スポーツ人類学では文化人類学的フィールドワークをこれまで模範としてきたが,スポーツ人類学に固有の視点がなければ,スポーツ人類学と文化人類学に違いはない。(2)スポーツを身体感覚のレベルで理解するためには,スポーツ実施者と調査者の関係において,スポーツ経験の有無が重要な要素である。(3)運動ゲシュタルトによって,調査者はより深くスポーツを理解することできる。(4)スポーツ人類学は研究対象としてのスポーツの運動形態を意味構造の視点から捉えることにより,その独自性を示す可能性をもつ。}, pages = {71--78}, title = {スポーツ人類学における〈スポーツ〉の理解}, volume = {1}, year = {2008} }